近作記録 :〈Sakurai Ikuya / Cross Section〉

2022

(前回公演)

【2022年公演記録】

櫻井郁也ダンスソロ

や が て 、、、

(タトエバ切ラレタ髪ノ時間ト) 

”WITH TIME"


2022年 7/30(土)~ 31(日)上演完了

東京・六本木

ストライプハウスギャラリー B1

30th and 31th July. 2022 at "STRIPED HOUSE GALLERY" Tokyo Roppongi


揺れる。

傾きつつ進む。       

閃光の果ての、この霧の中で、

切られた髪の時間と、    

光を作る者と、光を滅ぼす者と、

喪失と、来るべきものと、

ともに、

イキモノ全ての知覚が目を覚まし、

血が光になるまで、     

やがて、、、。       

(from notes by Sakurai Ikuya)



2022年の作品『やがて、、、(タトエバ切ラレタ髪ノ時間ト)』は、世界の変化のなかで翻弄される生命をめぐる思索から生み出されたダンス作品であり、櫻井が以前から追求し続けている生命の象徴としての血液をめぐるイメージの発展に加えて、抗えない力としての時の流れに対する思索が強く反映され、さらに、戦争、自由、社会、生活、生命倫理、、、など、私たちの現在に直結する思考の断片が身体や音や美術に結びつけられました。また、副題にある「切ラレタ髪」とは、櫻井がアウシュビッツ収容所跡で目撃した犠牲者の少女の髪を指しており、三つ編みのまま切り落とされたその髪に対する思いがウクライナ戦争とも重なり、作品制作に影響を与えました。この作品を通じて追求されたものをさらに研ぎ澄ましつつ、最新作の制作が進行しています。(十字舎房 制作部)



【ステートメント(作者声明)】


疫病の渦中、血はやがて光になる、と愚想した。

それが本作の起点だった。

体内の血の絶え間ない宇宙運動に、炸裂と発光の力を連想した。

血は命、血は有限と無限の繋ぎ手、血は望み、ならば、血は光の原形か。

(私にとってダンスはいつも血液をめぐる感覚と切り離し難い、それは年々確かになっている。)

ある日ふと思った。いつしか歴史なるものが身近に感じられてしまう時代になっている、と。

戦争が始まっていた。

捕虜となり断髪された女性兵士のことをネットで読んだそのとき、心奥でナニカが動いた。そして、もうひとつの「切られた髪」を思い出した。ホロコーストの犠牲になった少女の長い三つ編みの髪を。

それは、編まれたまま切り落とされ、切り落とされたままの姿で収容所跡に残されていた。

それを見た日、身にナニカが宿った。そう思っている。イキモノが入ってきたような感触があって、いまだ、消えない。30年ほど経つが、消えない。

あの切られた髪の発した、あのナニカは、私のどこか奥の方で、時を数え続けている。おそらく、心音とともに。

作品はぐらつき流動し、状況が絡まり、変容を繰り返し、いまこれを書いている。

すべて動いている、不確定に、生々しく。ぎりぎりまでそうなのだと思う。着地など、しない。

歴史なるものとともに、時代なるものとともに、そして、時なるものと、ともに、イる、あるいは、イキる、という感覚が、すこし、すこしだがソコハカトナク生々しく、肌のしたで目覚め始め、骨に疼痛が走る。

どこかで、この身体は死者や未出現者と繋がっているのかもしれない。繋がったまま、彼らの時間と、ともに、オドッているのかもしれない。

時を繋ぎ、時を紡ぎ、時を切断し、血を受け継ぎ、血の受け継ぎを切断し、やがて、、、。

肉体の未来はどうなるのだろうか。今ここにあるコノ体の内部には、どのような時間が孕まれてあるのだろうか。そんなことも、思う。

オドルというより身を静メルことから、内聴という言葉があるならばそこから、つまり、現在この時を確かめる、ということへの集中から、今回は現場に立つことになるのだと思う。そうありたい。

(櫻井郁也 2022年初夏)

2021

【2021年公演記録】  


櫻井郁也ダンスソロ

血ノ言葉

Ur-Speak



2021年 7/17(土)~ 18(日)上演完了

東京・六本木

ストライプハウスギャラリー B1

17th and 18th July. 2021 at "STRIPED HOUSE GALLERY" Tokyo Roppongi

火をさがす。
からだの底の、遠くの、、、。
血の脈をきく。
ないコトバを、
祖先のこだま、未来の疼き、すべての喪失、すべての破壊を。
命さかのぼり、神経の底から、来るべき魂の暴動のための沈黙を奏で、
体を光に分解し、
たましいの灰から、新しい火を、、、。

(櫻井郁也・創作ノート引用)



 

【ステートメント(作者声明)】


血液には、言語の原型(Ur-Speak)が孕まれてあるように思えて仕方がない。そんなことを強く思ったのは、昨春に続いて秋にも公演が中止になり、温存していた景を一人の稽古場で踊り納めた時だった。それは封印の瞬間だったが、同時に、本作の出発点になった稽古だった。そのときに書いたメモがある。

「それは、いまだけにある。いのちはきだすそれは、いまだけに、ある。それは、生まれることができなかった赤ちゃんと死んだ人が遺した静けさのなかで、来るべき暴動のための沈黙を奏でる。それは、精神の時間に突入して、大事なものをうしなった私たちの感覚を破片にする。それは、いのちはきだすそれは、かつてなく二度とない命を生成するために、散らばり、飛び跳ね、落下し続け、そして、からだを光に分解してゆく。それは、この一瞬を停止させ、まだない自我のために、血の言葉を沸騰する。それは、あらゆる悲しみを切断して、たましいにさわる。それは、いまだけにある。いのちはきだすそれは、いまだけに、ある。」
やがて、この新しい作品が芽生え、育ちつつある。
体の底から聴こえるもの。血の言葉、、、。いのちあるあいだ、ひたすら流れ続ける血液の中で、生まれそこなった心が疼いているのか、あるいは、祖先の声が血に溶け継がれて騒乱しているのか。ダンスが満ちあふれるとき、僕らは僕ら自身の、意識の古層に、あるいは、身体の生命記憶に、すこし接近するのかもしれない。
いま、
火をさがす。からだの底の、遠くの、、、。血の脈をきく。ないコトバを、祖先のこだま、未来の疼き、すべての喪失、すべての破壊を。命さかのぼり、神経の底から、来るべき魂の暴動のための沈黙を奏で、体を光に分解し、たましいの灰から、新しい火を、、、。
これは、いつかたましいにさわるための、からだを光に分解してゆく実験、あるいは、沸騰する沈黙である。

(櫻井郁也2021)



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